朔日









夜がそこまできていた。


江戸の町、中央にそびえるターミナルに支えられるように、ぼんやりと雲が横たわっている。
空の端はまるで燃えているかのように紫色に煌めき、
陽光の残滓が東の空に走る電線を申し訳程度にうっすらと染め上げていた。

初夏である。夕暮れのように見えるが、時刻はとうに夕を越えている。
いずれにせよ辺りはまだ明るく、それでも昼間のようにはいかずに、
光の差し込まぬところにはうすぼんやりと星が光っていた。


月は見えない。


「今日は朔日でしたっけ」


腰に刀を携えた、隊服姿の沖田が口を開いた。

市中見回りからの帰り道、沖田は土方と近所の土手にきて、
服が汚れるのも構わずそこに腰を下ろしていた。
土方は沖田の傍に立ったままだったが、そんな事は二人とも気にしていないようだった。
二人は互いに頓着せず、好き勝手生きる人種なのだ。
だから二人は一緒にいるし、それが苦痛ではない。二人でいると居心地がよかった。


「あ?…あー…」


土方が、くわえていた煙草を指でつまみ、ゆっくりと濃紺に染まってゆく空の端を見上げて言った。


「そういや、月がねえな。どうりで星が良く見えるわけだ」

「どっかにありますか、月?今日は見えないんですかね」

「朔かな…」
土方がぐるりと空を見回す。
「見あたらねえ」

「そうですか。じゃあ今日は、帰り道、暗いですね」

「街頭は?」

「まだ切れたまんまです。だから真っ暗で」


抑揚のない声が中空に霧散する。
暗がりを恐れるでもなく、好むでもなく、ただ道が暗いとだけ呟く沖田は、
土方にとって未知の存在だった。
普段何を考えているのかもわからず、酷く興味をそそられる。
土方は沖田のことを、理解とはまた別に、知りたいと思っていた。


「暗い道は怖いか?」


土方の台詞は、からかうような調子が目立つが、それでも半分以上本気で放たれたものだった。
沖田はそれを聞き、ううん、と少し唸ると、不意に土方の顔を見上げ、

「土方さんは?」

と聞いた。

まさか質問を返されるとは思っていなかった土方は、視線を上のほうに上げて考え込む。
空は何時の間にか完全に日が落ちて、墨汁でも溶かし込んだかのような闇に覆われていた。
先程まで見えていた炎のような夕日はかけらも見えない。
その代わりに、針の先でつついたような弱々しい光がてんてんと空に散っている。
ターミナルの上に広がっていた雲は流されて、ずっと遠くの空を頼りなげに漂っていた。
その雲の端から銀色の光がうっすらともれて、月かと思い目を凝らしてみると、それは天人の船だった。


「今日は月がないな」

「それはさっきっから言ってますぜィ」


沖田があきれたような笑みを口元に浮かべ、土方から視線を空に流した。
町の光もここまでは届かない。誰もいない。二人だけだった。



空が、星がとても近く感じられる。
土方がそっと手を伸ばす。
その指先に触れたのは空でも星でもなく、柔らかく流れるはちみつ色の髪だった。


「今日は月がありませんね」


思ったとおり朔日だった、と呟く沖田の目には、
砕けたガラスのような薄い光がもやもやと映りこんでいた。