ナイトウォーカー




















夜が嫌いだった。
日が沈み、月が天高く昇る頃、沖田はいつも眠れずにいた。
静かな吐息が息衝く屯所の中で、ただ一人きり、冴え冴えとした頭で朝を待った。
白く柔らかい布団に横たわっても、夏の終わりの夜風は冷たく頬を刺し、塞がれている筈の戸の隙間から、何か恐ろしいものが覗いている気がしてならなかった。
月明かりを浴びて横切る影が、庭の木々を揺らす風が、遠くから聞える街の喧騒が沖田から夢を掠め取ってゆく。
触れれば途端に身体がこわばり、吐く息は凍え、歯の根が合わずにカチカチと高い音がとまらなくなる夜の影は、沖田が想像する 死 そのものだった。









寝間着の裾を引き摺って、ひやりと冷たい板張りの廊下をのろのろと歩く。
月のない夜だった。部屋にいたのでは気が変になると、戸惑いながらも夜風を吸い込む。
灯りをつける気にはなれなかった。ああいったものは、そこにあれば安心できるものの、影をじりじりと強く形作る。
草葉の陰や柱の裏に潜む闇から逃げ出すように、背を丸め、身を屈めながら俯き足を進めた。
気が張り詰めていた。いつ何時、なにか恐ろしいものがそこに現れるかもしれない。
のこのこやってきた獲物を逃がすまいと、目前にまろびでてくるその様を想像し、ぎゅうと寝間着の前をかきあわせた。
そのものは姿こそないものの、人の命だとか、そういったものを喰って生きるよくないものの塊だと沖田は考える。
そして多分、その塊は、元は己のものだった部分も少なくはないだろうとも。
少しばかりの罪悪感と、それが己の業なのだと割り切る気持ちが沸いて出て、沖田の心を揺さぶった。
斬らねば斬られるのだ。ならば斬るしかない。生きる為に命を奪うことが罪だとすれば、この世に生きる全ての生き物は全員手が後ろに回るだろう。
道を違えたとは思わなかった。
けれど、沖田には、闇に潜むそのものが何よりも恐ろしく感じられるのだった。









もうそろそろ、屯所のぐるりを一周しようかという頃、それはぼうと現れた。
廊下を曲がった少し先、沖田の歩幅で十数歩ほどのところで、橙色の灯りが明滅している。
それはまるで、光源のない漆黒の夜の底で、ひゅうひゅうと穏やかに呼吸をしているようにも見えた。
沖田は静かにそれを見つめる。進もうか、進むまいか、戸惑っているのだ。
不思議と恐ろしくはなかった。近づけばきっと暖かいだろうとさえ思う。
あれはひょっとしたら、人の心に燈る明かりで、持ち主が眠っている間に、こっそり散歩に出ているのかもしれない。
それとも、暗くて何も見えないが、あの灯りはなにかの目で、それが爛々と光っているのかも。
好奇心に突き動かされ、知らず沖田は一歩踏み出していた。
音を立てず、心なしか跳ね出した心臓を押さえつけるように胸に手を当て、少しずつ歩み寄ってゆく。
なぜだろう、部屋にいた時にはあれほど冷たく感じられた風が、今はほんのりと暖かく、ほろ苦い。
身体の奥底から光が溢れるような気持ちになる。指先に、灯りが燈ったようなぬくもりを感じる。
ゆっくりと、ついに手を伸ばせば届くほど近づいた時、沖田はそのわけに気付いた。
「......ひじかたさん」
何より心をかき乱す、漆黒の髪の男がそこにいた。
柱にもたれ、いつもの仏頂面で煙草をふかしている、ように見える。
暗がりでは表情すら読み取れなかった。
ただ確実なのは、そこに土方という男がいること、そしてその薄く整った唇から延びた先に、あの橙色の灯りが明滅しているということだ。
心の灯りでも、なにかの目でもなく、この男の肺を犯す紫煙の光だった。
「総悟、」
男は驚いたように沖田の名を呼んだ。
口を開いた途端、言葉と一緒に零れ落ちた灯りが土を焦がして弱まる。
いつもの彼らしくない、僅かな戸惑いと気の弱りを感じた沖田は、手探りで彼の隣に寄り添い腰を下ろした。
少しずつ目が慣れてきている。月や街の光の届かないこの場所で、何故目が見えるのか、沖田は不思議に思う。
心の中にはやっぱり、橙色の明りが燈っていて、それがぼんやり照らしているのかと二、三度瞬いてみたものの、答えは見つからなかった。
「眠れないんでさァ」
暗闇の中で、互いの顔も見えないまま、夜の匂いを吸い込む。
ほろ苦い風はどこかへと流れていって、名残惜しく沖田はまたひとつ深呼吸をした。









土方の隣は暖かい。
あれからお互い口を開くこともなく、半刻ほど過ぎた頃、沖田はふと思った。
自分の心が安らいで、身体が温まるのがわかった。少しずつ、彼の体温が自分に移ってくる。
草葉の陰を見つめて、そこからなにか、恐ろしいものが飛び出してくる様を想像しようとして、できなかった。
「夢を見た」
突然、土方が口を開いた。もうそこに、あの橙色の灯りは見えない。
代わりに、輪郭がぼんやりと浮かび上がって、それで彼が躊躇しているのだとわかる。
「総悟、おまえは夜が嫌いだろう」
ぽつぽつと言葉が零れ落ちてくる。
沖田は否定も肯定もせず、ただ呼吸をしている。意識していなければ、それは簡単にとまってしまいそうだった。
落ち着いていたはずの心臓がまた力強く肋骨を打ち始める。全身に血液を巡らせ自分を生かすその音が、彼の耳にも届くだろうかと考えてみる。
「俺は知ってるよ。おまえは、毎夜、ろくに寝ていない」
静かに語るその声でも、この音は消せはしないのだなと、沖田は胸を見下ろす。
寝間着の隙間から覗く胸板が、上下しているようだ。呼吸とも違う、どくどくと速いリズムで動いている。
もう目も慣れたのか、はっきりと見て取れた。
「何が恐ろしい」
は、と沖田は音にならない吐息を漏らす。
そんなことは決まっている。闇に潜む、よくないものの塊だ。あれは人が寝ているところに、心の隙間に、滑り込んでくるのだ。
それは決していなくならない。それは人の心が産む。
「それは人か」
力強い眼差しが揺れる眼を射る。
沖田は身を強張らせた。
恐れているものの姿を、彼の瞳に見たような気がしたのだ。
それは闇にまみれて竦む己の姿だった。
「いやだ、」
何より恐ろしいのは、闇に潜むもの、闇から生まれるものだったはずだ。
沖田は、だから、闇を遠くから見ていた。近づけば喰われてしまうけれど、見ていなければ、それも恐ろしい。
人々の上に垂れる夜は安らぎを与えたが、沖田の上にはいつも、恐怖しかもたらさなかった。
後ろめたいことがあるのか。夜は、闇は、沖田をいつも攻め立てた。
心の奥底から声が聞える。
人を殺めることは間違いなのか。
ならば己は、憎しみに満ちた刃に倒れるべきなのか。
「総悟、おまえが夜を嫌うなら、俺が追い払ってやる」
優しくあやすように土方が言う。
沖田は怯え、身を強張らせたまま、彼の目を見ようとはしない。
「そんなこと、できないくせに」
心を掻き乱す彼の声はもう聞きたくなかった。
沖田はそれだけ言うと、膝を抱え、顔を伏せてしまう。
「そうご、」
土方が困ったように呟いた。
直後、躊躇うように伸ばされた右手が、沖田の腕に触れた。
指先はひやりと冷たい。それは嫌な冷たさではなく、清涼の如き心地よさがあった。
「土方さんが傍にいると、俺、俺でなくなっちまうんでさァ」
その手を振り払うこともせず、膝の間から沖田のくぐもった声が響く。
「土方さんの目はなんでも見通しちまうから」
恐れていたものが目の前にあった。それはいつも己の身に纏わり付き、心を犯し、刀を通して現世を見ていたのだ。
闇はそれを写し取り、沖田に見せていたに過ぎなかった。
土方がそれを知らしめてしまった。彼の目には真実しか映らないと、沖田は知っていた。
彼の手が離れてゆくのがわかって、沖田は咽喉が戦慄くのを感じた。
けれど、すぐにそれが己の肩に回され、優しく抱き寄せられたとわかると、それもすぐに収まった。










「......総悟、夜が明ける」
土方は、沖田の方に回していた手で縮こまった背中を優しく撫でた。
心に巣くうものを掬い取ってやりたいとでも言うように、何度も何度も、話し掛けながらさする。
秋口の夜風は体温を奪う。沖田の背中は、驚くほどに冷たかった。
「傍にいるから」
零れ落ちた言葉は少し濡れていた。
土方は構わずに手を動かし、強張った首筋に甘い口付けを贈る。
己の心を恐れた哀れな青年は、居場所を見出すことができずに縮こまっている。
彼にはぬくもりが必要だった。闇とも光ともつかない、黄昏のようなそれが。
「俺がずっと、おまえの傍にいる」
少しずつ空が白み始める。
朝霧の立ち込める庭にぼんやりと霞んだような光が穏やかに射し込み、早朝独特の匂いが感じられた。
土方は身体をかがめ、膝を抱えている沖田の顔を覗き込んだ。
赤みを帯びた頬と、薄く開かれた唇、柔らかく閉じられた目を見て、彼は一瞬眉を跳ね上げ、そして拍子抜けしたように苦笑した。
何時の間にか暖かくなった沖田の身体を愛しげに抱き寄せると、逡巡した後、そっと耳元に口を寄せる。
「だからおまえも、俺の傍にいろよ」
吐息ともつかないその音は、朝と夜の溶け合う音に混ざり、静かに消えていった。









あとがき