波の音が耳を洗う。
寄せては引き、引いては寄せ、なだらかな隆起を風のように吹く塩辛い水の只中、ぽこりと不恰好に飛び出た岩に一匹の魚と一人の男が腰掛けていた。
暗い色のスーツに身を包み、まっさらな、真夏の青空を思わせる澄んだ色のネクタイをゆるく締めている男が、頬杖をついたまま溜め息をひとつこぼすと、こぽ、と透明な気泡がゆらゆらと舞い上がってゆく。
器用に身体を曲げ、男の隣で尾ひれの艶を確かめていた魚が、踊る気泡の行方を目で追って顔を上げた。
気泡はまぶしく遠い水面へと吸い込まれて消える。空は遠い。
「何を溜め息なんかついてるんだい」
魚が言った。ガラス球のような黒い瞳を男に向け、幸せがまたひとつ逃げていったよとひれで上を指す。
男はつられて上を見て、遥かかなたにある太陽の光にまた溜め息をつきかけ、しかし直前で思いとどまり、「見ていろ、魚」と呟くと、器用に唇を曲げ、舌を丸め、ぽこんとドーナツ型の気泡を作って、にんまり笑って見せた。
ゆらゆらと頼りなげに上昇してゆく透明な環は、その中心に陽光を反射させて、まるで閉ざされた世界からの唯一の脱出口のようにも見える。
遠ざかり、先ほどの気泡のように消えてゆくその環には、それ以上の意味を見出せそうにはない。
「うまいもんだね」
魚もまねをして気泡を吐き出そうとするものの、うまくいかず、やきもきと両のひれで顔を擦る。
「煙草でやるのが面白いんだ。寒い夜にやると、きれいだ」
「たばこ?」
「葉っぱを紙で巻いて、それに火をつけて出る煙を吸うものさ」
「楽しいものなのかい?」
「楽しいというより、美味いな」
「煙なのに?」
「うん、煙も美味い。病み付きになる」
ふうん、と魚は口元を擦った。大方、口の中に煙の味でも想像しているのだろう、と男は軽く笑う。
あの煙の美味さは、一度味わった者にしか分かるまい。
毒素を体内に取り込む行為を自ら進んでする物好きな生き物など、人間くらいしかいないから、従って煙草の煙の美味さは人間のみの知るところとなる。
魚は考えるのをやめたようで、近くで波に押されて揺れていた小石をひれで掴み、上に投げては落ちてくるそれを頭で押し上げて遊び始めた。
サッカーでいうリフティングのようなその遊びを眺める。
緩慢な動きで上下する灰色の粒に、時折水面の反射を縫って降り注ぐ陽光がちらちらと光り、男の色の無い眼を刺激する。
飽きることなく魚は小石を突付きまわし、時には遠くに投げてそれを拾ってきたりしていた。
男もそれを眺めたり、時には頬杖をついたきりぴくりとも動かなくなって、そしてがくりと落ちた頭に居眠りをしていたのが魚に知れ、少し照れくさそうに笑ったりして過ごした。
やがて太陽が傾き、水面を透かして届く光も淡くなったころ、魚は小石をひれで弄びながら、男の前に泳ぎ出た。
「さて日も沈むことだし、ぼくは家へ帰るよ」
「そうか」
「これはきみにあげる」
魚はそう言うと、持っていた小石を男に差し出す。
男はそれを摘んで受け取ると、「ありがとう、魚」とにこりと笑った。
照れくさそうにひれを揺らす魚にまた笑顔を浮かべると、今度は魚も声を出して笑い始めた。
一匹の魚と一人の男は、肩を揺らし涙を浮かべ、腹を抱えて大笑いして、海流をたくさん乱した後に握手をした。
魚のひれは小さく、男の手で握ることはできなかったけれど、指先を少し触れ合わせると、それだけで気持ちは満たされる。
遠くから潮騒の音が響いてくる。ごうごうと流れる水が砂を巻き上げて、疾風のように駆け抜ける音。
「ばいばい」
魚は少しひれを振ると、きれいに並んだうろこを煌かせながら男から離れた。
「さようなら」
男も少し手を振って、それからぎゅうと魚にもらった小石を握り締めた。
黄金の波が寄せる。
後に残るのは、少しばかりの丸い気泡と、舞い落ちる白い砂ばかり。
潮騒