あなたは誰かを好きになったりしないの?
昔付き合っていた彼女にそういわれたことがある。
昔、と言っても2年くらい前だから、中学生の時だ。
そして、私のことも好きじゃないのね、とほっぺたをひっぱたかれて、別れた。
そんなことないよ、俺は君が好きだ。そういいたかったのに、何故だか言葉がでなかった。
好きってなんだ?
人を好きになるって、どういうことだ?
俺にはわからなかった。多分誰にもわからないことなんじゃないかと思った。
そして一生、それがわかる日は俺にはこないんだろうとも、その時、悲しかったけれども、思った。









ばらの花










放課後の教室に一人で残って、数学の参考書とにらめっこをする。
別段、やらなければならないことでもない。
宿題でもなければ、テスト範囲でもない。
ただなんとなく、思い出してしまった昔の恋愛の影に追われて、俺は怯えるようにシャーペンを動かしているだけだ。
思えばあれは恋ではなかったのかもしれない。
彼女がいるというステータスを持ちたくて、告白を受け入れただけだったのかもしれない。
好きだと思っていた。一緒にいて嫌ではなかったし、好きといわれて悪い気もしなかったから。
でも俺の好きは好きじゃないといわれた。好き。不思議な言葉。
いつの間にかシャーペンが止まっていて、俺はただぼうっと意味不明な数式を見つめていて、傾いた太陽に照らされて真っ赤になっていた。
そういえば、彼女も、俺に告白してきた時はこんな風に真っ赤だったっけ。
「おー、佐藤、まだ残ってたのか」
赤く染まった自分の手をまじまじと見ていたら、教室のドアが突然がらっと開いて、担任の笹川先生が驚いたように俺を見ていた。
「先生」
「なんだよー、お前結構まじめなのな?」
ちがうよ先生、俺は勉強してたんじゃないんだよ。
「お、数学かー。先生も若いころは苦労したなー」
先生は俺の前の席に、後ろ向きに座った。俺と向かい合うようにそうして、胸ポケットから煙草を一本出して銜えた。
「煙草吸うの?」
「吸わねーよ、今はな。生徒の前だし、ここ教室だし」
「ふうん」
じゃあ何で銜えるんだろう。
「先生は煙草好きなの?」
「あー...」
そう聞くと、先生は困ったように眉をひそめた。
それからごまかすように、俺の数学の参考書をぱらぱらめくって、なんだこりゃ、意味わかんねー、とか言っていた。
「先生は何が好きなの?」
それはどんなに難しい数式よりもわからないもの。好きということ。
先生は手を止めて、ぱたんと参考書を閉じて、うーと唸りながら頭をかいた。
「先生は少なくとも、数学は好きじゃないな」
「じゃあ何が好きなの?」
笹川先生は古典の先生だから、数学が好きじゃないっていわれても別段不思議に思わない。
「そうだなあ...」
真っ赤な教室の外から、薄い窓ガラスの向こうから、何かの掛け声とか、チアの応援歌とか、校舎の方からはホルンとかそういう楽器のぷあーとかいう音が聞こえる。
変なの。全部が遠い。
「佐藤はさあ、何が好きなんだ?」
知らない。俺は思わずそういいそうになったけど、それはいけないことのような気がして口を閉じた。
自分の好きなものすらわからないなんて、頭の悪い子供みたいだ。
でもわからない。なんて答えればいいんだろう。
今時の子みたいに、あの歌手が好きとか、ちょっと知的にこの本はいいですよねとか、そういう事をいっておけばいいんだろうか。
「佐藤は好きなものないのか?」
うつむいてだんまりをきめこんだ俺の顔を、先生が下から覗き込んでくる。
いたずらっこみたいな仕草。変なの。
この世界は変なことばっかりだ。
でも、嫌いじゃない。
「俺、少なくとも、先生は好きだ」
そう思ったから、言った。
先生は驚いたように口をぽかんと開けた。だから、銜えていた煙草もぽろりと床に落ちた。
それから、しばらく口をぱくぱく、金魚みたいにあけたりしめたりしていたと思ったら、急に机につっぷして、うがーと唸りながら頭をがしがしかき回した。
「佐藤さ、」
「うん」
「...うん。先生も佐藤は好きだよ」
「うん」
俺が何も、そんなこと不思議なことじゃないと、ただ普通に返事をしただけなのに、先生は机から顔をあげなかった。
「先生も...先生は、佐藤が好きだよ」
不思議だった。変な感じがした。
先生は俺のことを好きだといってくれた。
それは中学生の時に告白をしてくれた子と同じ言葉だった。
だけど俺の心の奥のほうが、なんだかずきんとして、それからじわじわ、むずがゆいような、熱くなるような、そんな感じがした。
「変なの」
「そうだよな、先生変だよな」
「ううん。俺が変なの」
「佐藤」
俺はどうしてだか泣いていた。胸の奥からせり上がってきた熱いなにかが出口を見つけてそこからぽろぽろ落ちているのだ。
先生はやっと顔をあげて、それで、俺が泣いているのを見て、急におろおろしはじめた。
「笹川先生」
なだめるように、どうしてだか、しきりに謝りながら俺の頭を撫でていた先生の手を、ぎゅっと掴む。
それで、まだとまらない涙の後をたどるように、ぎゅっとその手のひらに頬を押し付けて、いった。
「好き」
先生の手は暖かかった。
先生は、うん、と頷いて、抱きしめてくれた。
煙草のにおい。先生は煙草が好きなんだろう。
でも煙草と、俺との好きは、きっと違う。今ならわかる。
あの時、まだ中学生だったあの時、好きを知る日はこないなんて思ったことを、俺は笑い飛ばしたい気分でいて、思わずくすくす笑ったら、先生もつられて笑った。









(だけどこんなに胸が痛むのは、)