わああん、わああんと深い森の中に獣のような鳴き声が響いていた。
男子なのか、女子なのか、わからない。
小さななりの、人に似た形をした子が一人、ぐったりと横たわる龍の隣で泣いている。
人や獣よりも更に濃い血で雪を溶かしながら静かに死んでゆく龍にすがりつき、泣いている。
銀の月の光を跳ね返し、目に突き刺さるような白い雪が腰までも降り積もって、葉の落ちて禿げあがった山々を凍りつかせている。
息をひとつ吸えば肺はひび割れるようで、外気にさらされた瞳がちりちり痛んだ。
幾重にも巻いたぼろ布を通り抜けて、冷たい空気が体を冷やしてゆく。
舌だけは妙に熱く、ごくりと飲み込んだ生唾が喉を焼きながら腑に落ちるのが現実めいていて恐ろしい。
音は子の声だけだった。獣の気配もまったくなかった。
男は一人立ち尽くし、その光景をじっと見ていた。
まだ降り続ける雪に凍りつきそうになっても、目を離すことも動くこともできなかった。
龍を撃った。
恐ろしく深い夜の闇の中を、燐光を放ちながら飛ぶ龍を撃った。
龍の角は万病を治す薬になると聞き、満月の夜に龍の通るという山に身をひそめて3日経った夜のことだった。
ぴったりと月の満ちる夜に空に躍り出た龍の姿に、息を飲み引き金を引く指が震えた。
龍の姿のあまりに美しいもので、そして何より、黄金色のガラス玉のようなその瞳がこちらをじっと見つめるので、全身が固まったように動かなくなり、呼吸すらも満足にできなくなった。
時が止まったようだった。猟銃を構えたまま、瞳の表面が凍りつくほどに目を見開いていた。
熱く脈打つ心臓さえ止まってしまいそうなほどの沈黙の中、それを切り裂くように、子の声がわぁんと響いた。
「人間」
男ははじかれたように引き金を引いた。まったく撃つつもりなどなかったのに、驚いて思わず指が動いてしまったのだ。
放たれた鉛の玉は違わず龍の額を貫き、一瞬の間を置いて鮮血が迸った。
ぐるん、と黄金色の瞳が裏返り、白目を剥いて龍は枯れた細い木々をなぎ倒しどうと雪原に落ちた。
きゃああと金切り声が響いた。子の声だ。
龍の背に乗っていたのか、雪の上に転がり落ちた子は、血のような赤い着物を着て泣き叫んでいる。
子の白い髪の間からは、龍と同じいびつな形の角が2本生えていた。
これは龍の子か。人の姿をしているが。
濃厚な血のにおいに当てられたように、頭がぼうっとした。
しかし、当初の目的は果たしたのだ。龍の角が手に入る。
医者に見放され、弱っていくのを見ているしかないと思われた女房を、これで助けることができる。
瞬きもしないまま、雪をかき分けて龍の死骸に近づく。
龍の頭を抱え泣いていた子が、その気配に気づいて男を鋭く睨みつけた。
龍と同じ、黄金色の瞳をしている。人形のように美しい顔だ。
「人間、母上を殺したな」
しゃくりあげながら、叫ぶように言う。
この龍は、子の母であったらしい。
「角が必要なんだ。薬が。家内が病気で...龍の角が」
男はひどく動揺しながら、言葉足らずに言った。
「薬なんか。まじないだ。ばかな人間の、ばかなまじないだ」
龍の子は泣き叫んだ。
「それでもほしいならくれてやる。母上の角はだめだ。おれの角を飲ませればいい」
「薬ではないのか」
「効くものか。人間はばかだ。おれの角を飲んで、呪われればいい。龍の血も龍の角も、ばかな人間をきっととり殺す」
男は戦慄した。どうすることもできず、立ちつくした。
すべて無駄だったのだ。しかし龍は死んだ。子を残して。もうその体はすっかり輝きを失い、ただの肉の塊になり果てていた。
とてつもなく大きく、美しく、清廉で尊ばれるべきものを、男は殺した。
龍の子は男に呪いの言葉を吐く。
「人間は嫌いだ」
消えてゆく母の温もりに追いすがるように、泣きながら、男を呪う。
「呪われろ、呪われろ。龍殺しの男。陽のある時も月の下でも。お前の触れる花はみな枯れる。水はみな腐る」
龍の血が男の足元にまで流れてきた。薄い布からしみ込んで、男の皮膚にじわじわと言い知れない熱を与える。
「望めば失う。ずっと苦しめ。老いず、死なず、苦しみ続けろ」
わああん、わああんと鳴き声はずっと遠くの峰まで響くようだった。
男は自分のこれから辿る運命を悟った。
足元から滲む龍の血の熱は少しずつ男の感覚を犯した。
龍殺し。龍殺し。呪われて、苦しみ生きろ。
こめかみに手をやると、皮膚がわずかに膨らみ、その下に息づくいびつな角の存在を感じた。
息吹く角
西洋ならこいつは間違いなくシグルド。
というか龍角散。