思えば朝から調子が悪かったような、気が、しないでもない、ような。 起きたときからなんだか身体がふわふわした。寝不足かなと思ってもう一度寝たら、次に目が覚めたのは昼過ぎだった。 少し気分が悪くて、寝すぎなのと腹が減っているのと、きっと両方が原因なんだと思ってとりあえず食事の準備をした。 食事といっても、この間友人に貰ったメロンを少しと、ひとつだけ残っていたプリンだけだ。 スプーンですくって口に含む。甘い。 そうしてゆっくり食べ進めていたら、急に吐き気がして、食べたものを全部もどした。 もったいない、このメロン高いやつなのに。 床にはいつくばってそんなことを思う。馬鹿か、僕は。 汚した床やらなにやらの後始末をしていたら、意識が飛んだ。 次に気が付いた時は何故かベッドの上にいて、同居人の少年がじっとこっちを見ていた。 「おっさん」 ユキだ。なんて顔をしているんだ。死にそうじゃないか。 「元気がないね」 「そりゃ、あんただろ」 言い返されてしまう。ああ今は何時だろう、腹が減っているのかな、ユキはなんだかイライラしているようだ。 「飯は食べた?」 「食った」 「じゃあ、なんでそんなにイライラしているんだい」 「してねえよ」 「してるよ、目が怖い」 ユキは黙った。僕は視線をめぐらせて、何か話題はないかなと思ったけれど、特になにもなかった。 あんまり気の利かない男だとは自負していたけれど、これにはほんとうに参る。ユキは一度へそを曲げると、なかなか折れてくれないから。 「おっさん、平気なのかよ」 ユキが窓の外を見ながら言った。 「話題が見つからなくて困っているけど」 「そうじゃねえよ」 ため息をついて、それから何かを言おうとするのだけど、息が詰まったように口を閉ざしてしまうユキ。 不器用なこの少年の言いたいことは、実はわかっているのだ。 わかっているのだけれど、促してやれば僕はそれに甘えてしまうだろう。 誰にも、特に彼には、手を差し伸べられてはいけない人間なのだ、僕は。 ユキは黙ったままだった。僕も何も言わないから、他に住む者のいないこの家は静かだった。 しばらくすると彼は立ち上がった。僕の私物でごったがえす床を器用に進んで、台所に立つ。 ああやめてほしい、あれはきっと食事を作る気なんだ。食べたくない。 「ユキ」 僕はどうしようもない気持ちで一杯だった。もういい歳だというのに、甘えた声を出す。馬鹿だ。 「ユキ、こっちへ来てくれないか。私のところへ」 いつもの外面、取り繕った見せ掛けの自分を崩すことはない、僕の詭弁で彼は騙される。ユキが近づいてくる。 ベッドの上に身体を起こして、僕は何も言わずにユキを見つめた。 この少年の心を知っている。知っているから、こうしている。彼の行動が読める。何を考えているのかも。 「おっさん」 「名前で」 「...コトホギ」 僕は少し笑う、顔の筋肉を動かすだけでいい。 「なんだい、ユキ」 呼んだのは自分だというのに、何を言っているのか。 「コトホギ」 泣きそうな顔で彼は僕に抱きついた。僕の身体は熱を持っているようだ。いつも暖かいユキの手が冷たい。 「帰ってきたら、あんたが倒れてて」 「うん」 「心配した、死んでんのかと思った」 「失礼だな、そんなに簡単に死んだりしないよ」 「でも、怖かった」 「ごめんね、心配かけたね」 「はやくよくなって」 ユキが深い息を付いた。腹の辺りが濡れて、多分泣いているのだなとわかった。 まるで子供だ。いや、彼はまだ子供なのか。 恋と呼ぶにはまだ幼く、憧れと呼ぶには少し行き過ぎた感情が、彼の中に渦巻いているのを確かに感じた。 親の歪んだ愛情、最愛の兄との離別、自らに眠る力の大きさに押しつぶされそうになりながら、必死で生き抜いてきたユキ。 それでも、彼にとって世界はなんと広く、美しく、穢れを知らないものだったのだろうか。 僕は自分の手を見た。特別なにかがあるわけでもなく、だかそれは確かに汚れていた。 酷い裏切りを経て、僕の中に生まれながらにわずかに存在した清い心というものはすべて失われ、単純なことに僕はただ生きているだけの生き物になったのだ。 僕はユキから奪ったものをひとつひとつ挙げることができる。 親、兄弟、家、故郷、育まれるはずだった彼の心、それでも伸びやかに成長した今の姿すらも。 でも彼はそれを知らない。僕の心を知らない。 僕がどれほど醜く、自分の罪を覆い隠そうともがいているのかも。 僕と彼との出会いがほんの偶然であると、そして今の生活が、僕の小さな良心から成り立っているものだと、信じてやまないのだ。 「ユキはいい子、優しい子だね」 ああこうして美しく生きる若者を汚す甘美といったら。 暖かく微笑み、優しい言葉をかけ、まるで愛しているかのように抱きしめる。 僕に甘えを許さないで、そういいながら何をしているのか。 心根の腐った人間のやることなど、少年は知らなくてもいいのだから、 僕はもう少しこのまま黙って彼の心を犯そうか。
君の目を通して見る
世界はこんなにも甘く |