「おはようございマソップ」
「おー、おはようございマッスルミュージアム」
朝、もくもく雲の湧いて出る空の下、靴底のはがれかかったローファーをぺこんぺこんいわせながら歩いていたら、後ろから尾てい骨のあたりにガツッと膝をいれられた。
毎度おなじみの挨拶だ。俺も同じく、横に並んできた志乃の膝裏に蹴りを入れて返す。
「今日弁当忘れたわ」
「マジかー。取りに帰れば」
「いや、なんかもう弁当そのものがない」
「あ、そっちか。そっち系か」
「そっち系だよ。しかも財布もない」
「死んだな」
「死んだー」
志乃は弁当と財布がないらしい。遠まわしに昼飯をおごれといっている。
俺は昨日、バイトの給料が振り込まれたので少し財布が暖かい。まあ、いいか。なんて思って、じゃあ昼は俺の下僕として購買でパン買って来い、と500円玉を渡した。
500円かよー、札だせよー、と志乃が言うので俺が脳天にチョップを食らわせると、殿、殿中でござる!とか言いながら笑った。
俺と志乃は小学生のころからこんなかんじで、履き潰したローファーももうすぐお役ごめんとなる高校3年の今もまた、こんなかんじだ。
ずっと兄弟のように思ってきた。それは志乃も同じだったようで、たしか中学に上がりたてのころだかに、もし兄弟だったらどっちが兄貴か、で相当もめた記憶がある。
実は俺たちは誕生日まで一緒だから、その話には結局、決着はつかなかった。
俺は今でも自分の方が兄貴だと思ってるし、志乃も多分そうだ。




「今な、2月だな」
「んだな」
家を出て5分歩くと志乃と合流する。
そこから10分歩いて駅について、30分電車に揺られてから10分歩くと学校につく。
その間、俺と志乃はずっと喋りっぱなしだ。話題が尽きるなんてことはない。いつだって馬鹿な話で笑い合える。
「んでさ、14日なのな」
「...んだなー」
「今日すげぇチョコじゃん」
「チョコだよな」
「...チョコなー」
「チョコなー...」
二人でチョコ、チョコといいながら電車に乗ると、同い年くらいの女子高生の集団が目に入った。
「多分さー、チョコ持ってるんだよな」
「持ってるなー、あの目は持ってる目だよ、愛の狩人の目だよ」
志乃も俺もまあモテなくはないが、特別に格好いいわけじゃないし、つまり平凡な男子高校生だ。
今までバレンタインにチョコをもらったことがないかと言われれば、それは一応ノーになるが、全部義理だ。
志乃は一度だけ本命をもらったことがあるらしいが、同時にもらった愛の告白と一緒に断ってしまったそうだ。
もったいないなあと思ったけど、志乃には志乃なりの考えがあるらしかった。俺は、少し、羨ましかった。同時に少し、ねたましかった。
多分嫉妬だ。志乃か、それとも相手にか、わからないけど。考えたくなかった。
「高校最後のバレンタインだな」
志乃が呟いた。電車のガタゴトいう音にまぎれてはいたけれど、俺は誰よりも志乃の声を聞き取ることが得意だった。
「そんで、俺らが一緒にチョコチョコ言えるのも、多分、最後だな」
入り口の脇のポールに掴まって、志乃は遠くを見ていた。次々過ぎ去る電柱やビルなんかを見ているのだろう。俺も同じものを見ていた。志乃と同じものを。
俺と志乃は違う大学へ行くのだった。二人とももう大学は決まっているのだ。
志乃も俺も頭は悪くなかったから、お互い、希望していた大学にはいることができた。
俺はこのまま、今の家から都内の大学へ通う。そう遠くないところだから、生活はあまり変わらない。
けれども志乃は違った。
志乃は北海道の国立大学へ行くのだ。遠くへ行ってしまうのだ。
もうこんな風に、毎朝馬鹿な話をしながら一緒に学校へ行くことは、ない。
離れ離れになる、のだ。
「...そ、かな」
俺は小さくそう言った。他に言葉が思いつかなかった。
そんなことねーよ、日本なんてちっちぇーんだから、いつでも会えるって。
そういう風に笑い飛ばしたかったけれど、できなかった。
頭の先からつま先まで、まるで熱く溶けた鉄を流し込まれたようにどんよりとした気分だったからだ。
いやだいやだと駄々をこねたかった。志乃の受験の日には、悪いけど落ちてればいいななんて思ったりもした。
けれど志乃は遠くへ行く。俺を置いて。夢を追っていく。
「朝になるのが楽しみなのも、きっと、今が最後だ」
電車が駅のホームに不器用に滑り込んで、俺たちは少し斜めになって、それから止まった。
ドアが開くまでの僅かな合間に、志乃は少しだけ長い瞬きをしていた。




志乃と俺は、クラスのドアのところで手を振って別れた。隣のクラスで、志乃のオハヨーという声が響くのを聞いた。
志乃の声は誰よりよくわかる。本当に誰よりも。少しかすれて、まあるく響く、まるで真夏の夜、遠くから聞こえる強くて気高い犬の遠吠えみたいだ。
今日はただの登校日で、授業もなにもなくて、ただ担任が少しばかり話をしてからプリントなんかを配るだけで、だから俺は時折聞こえる志乃の声を追っていた。目を瞑れば志乃だけが浮かんできた。
志乃。遠くへいってしまう。




「おまたー」
「おせーよ」
「なんか担任に捕獲された。意味わかんねー」
つーかなんで授業ねーのに午後まで学校あんだろな?とか志乃が笑って、俺も一緒になって笑って、それでも心のなかではずっと笑えなかった。
志乃。今はこんなに近くにいる。でももうすぐに遠くへいってしまう。
不思議な感覚だった。
「...岳、なんか、朝からおまえ、変だな」
下駄箱からぼろぼろのローファーを取り出そうと屈んだら、そのまま背中を軽く押されて前につんのめった。
いてーな、なにすんだよ、と言おうと振り向いたのに、俺はどうしてだか何もいえなかった。
志乃が遅くまで担任に捕まっていたせいで、今はもう太陽も傾いて、西日がガラス張りの昇降口を真っ赤に染め上げている。
部活に精を出す1、2年生の掛け声や、管楽器の出す少し間抜けた音なんかが人のいない廊下のなかをわんわん反響して駆け抜けてゆく。
俺と志乃はそこで二人きりだった。
燃えるような、少し埃っぽくて、時折ちらちら塵が一瞬だけ光ってみせる校舎に取り残され、そんな中で、いつになくまじめで、まっすぐな目で志乃が俺を見ているのだ。
俺よりほんの少しだけ高い背が更に大きく見えた。俺の心は弱くくじけてしまっていて、いつ志乃がいなくなるか怖くて怖くてたまらなくて、それだから多分、そう見えたのだろう。
「俺がいなくなるから?」
志乃が言う。
「俺がさ、遠くに行くから?だから岳はずっと、落ち込んでるんだ?」
俺は答えられない。心の弱さを見せるのが嫌だった。
「朝、俺が、あんなこと言ったから」
志乃は構わず続ける。
「岳のこと、俺、傷つけちまった」
そういうつもりじゃなかったんだ、と志乃は弱弱しく呟いた。
少しうつむいた顔がくしゃりと歪むのが見えた。
「ごめん」
志乃。
「ごめんな」
志乃、志乃。
「一緒にいられなくてごめん」
いつだって傍にいた俺の兄弟。
強くて気高い犬の遠吠えが震えている。
「俺、岳のこと、が」
「志乃」
「岳が」
「志乃、」
志乃はとうとう、うっ、と小さな嗚咽のあと、静かに涙を零した。
岳が、岳が、と呟きながら、うつむきなだらかな頬を幾度も幾度もしずくが伝っていった。




本当はずっと気付いていた。
志乃は俺が好きなのだ。だからバレンタインに本命のチョコレートをもらった時も、断ったのだ。好きな人がいるから、と。
そして俺も志乃が好きだった。
傍にいたいという思いから、触れたい、という思いに至った経緯はよくわからないが、とにかくそういう対象として俺は志乃を見ていた。
それは悪いことだと思っていた。多分志乃もそう思っていたのだと思う。
だから言わなかった。言わなくても傍には志乃がいた。それで十分だった。今までは。
これから志乃はいなくなる。
志乃。




「すきだ」
俺は言った。それから、うつむいた志乃の顔を強引に持ち上げてキスをした。
恥ずかしいとか、こんな場所でとか、そういう考えはあったけれど、関係なかった。
志乃の心を繋ぎとめておきたかった。
同じ思いを抱えているんだと教えたかった。
そして何より、志乃の涙を見るのが嫌だった。
「岳、」
「俺志乃が好きだ。だから今キスした。志乃が俺の思ってることしらないまま置いていかれるの嫌だったから」
「お、」
「志乃が好きだ。俺は、志乃が好きだ。ずっと好きだ。今までも好きだしこれからも好きだ」
俺は呼吸をするのも忘れた。ただ伝えたかった。
志乃の思いは、志乃の思ってる悪いことは、志乃のものだけじゃないんだということを伝えたかった。
「好きだ。好きだ、好きだ、好きだ。志乃、好きだ」
志乃は、一言、俺の名前を呼んで、今度は向こうからキスをしてきた。
最初はわからなかったけれど、志乃の唇は乾いてかさかさしていて、でもすごく熱かった。
そして、何故だか、甘かった。とても。滑り込んできた舌まで、溶かしたチョコレートのように。
「岳、好きだ」
「餌付けがきいたかな」
「俺は購買のパンより岳のキスの方が好きだ」
お互いの唇が触れ合ったまま、そんなことを言う。僅かな振動が薄い皮膚を通して俺の脳を揺さぶる。
そして、揺さぶられた脳からこんな言葉が飛び出した。
「バレンタイン・キッスって知ってるか?」
「国生さゆり」
「古いか」
「どうでもいいや」
そうだなあ、の一言は志乃にそのまま食べられた。
あまい。
「北海道に蟹食いに来いよ」
「蟹もいいけど、バレンタインにキスしに行くのも、いいな」
二人で笑った。俺たちはいつだって馬鹿ばっかりだ。
でもこういう、馬鹿で甘い志乃は俺が好きで、俺も志乃が好きで、それでよかった。
本当に、よかった。














07/02/14
ハッピーバレンタイン!
Sputnik 東鳩