君が好き









彼はある日突然佐助の中に入ってきた。
今まで佐助の築き上げてきた壁をすべてぶち壊し、逃げても逃げてもまとわりつく炎のように心を焼いた。
大学のカフェの隅っこに陣取り、セルフサービスの水で喉を湿らせながら、目を閉じれば浮かぶのは彼のことばかり。
「真田幸村...か」
一か月ほど前、いきなり佐助の前に現れ、一気に佐助の心を占めた男。
(ていうか...少年?)
幸村は佐助より3つ年下で、今は高校2年。らしい。
明るく元気で、頭も決して悪くない。顔つきは精悍で、少し天然気味なところもあるが、おそらく女の子にももてるだろう。
味覚はお子様。ハンバーグとかが好き。
それで、笑顔はすごく、可愛い。
(...じゃなくて!)
つい、幸村とのまだ短い付き合いの中で得た情報が頭をよぎってしまう。
そうではなくて、佐助は幸村との付き合いを打ち切りたいのであって、今もそのことで悩んでいるのである。
正直、佐助は幸村のことが好きだった。好きだからこそ、もう会いたくない。
心を悟られるのが怖い。人と深く付き合うことができない。
自分の作りものの笑顔がいつか本物に変わることが恐ろしくて、そうすることで今までの自分全てが崩れてしまうようで、だめなのだ。
佐助はいつでも笑っている。でも幸村はたまに、そんな佐助に変な顔をする。
どうしてそんな風に笑うのだ、と悲しそうにつぶやく。
つらいのなら笑わなくていい、そんな笑顔は見たくない、という。
(今まで誰も、そんなこと言わなかったのに)
本当の自分、とは、何なのか。
幸村は、佐助が見ないふりをしてきたものすべて、これも佐助だと拾い上げてくる。
出会って一か月。そんなに長い時間はたっていない。
もともと高校時代の恩師の紹介で顔を合わせて、それっきりだと思っていたのに。
(本当、困っちゃうよな...)
顔を覆い、ため息を吐く。
と、丁度のタイミングで昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
毎日毎日遊びにくる幸村と、それを受け入れてしまう自分。
(早くなんとかしないと)
席を立ち、コップを片づけながら考える。
本当の自分を暴かれる前に。
実らない恋に陽が当たる前に。
(似合わないことするの、やめなきゃ)
一目ぼれなんて安っぽい魔法、そんなものはいらない。
佐助は3限目の教室へ向かう。
いつもの笑顔。猿飛くん隣イイ?なんて女の子に聞かれる。
薄っぺらい心に浮かべた上辺だけの表情を貼り付けて、そんな自分を遠くから見詰めるような感覚。
今日こそ、全部終わらせなくては。









帰り道、佐助の足取りは重かった。
自宅のボロアパートの前には、多分幸村がいる。
毎日学校の帰りにわざわざ足を運ぶのだ。自分の家は逆方向なのに。
(今日こそ...言わなくちゃ)
もう会えないって。迷惑だって。嘘をつかなくちゃ。あんたが嫌いなんだって。
電車から降りて、とぼとぼ歩きだす。家まであと10分もない。
これからしようとすることを考えると、心が重かった。
でもそれを認めたくない。というか、認められない。
(信じたって、いいことなんかひとつもないよ)
佐助の両親は、人を信じ、そして裏切られ、自殺した。
佐助が中学生の頃の話だ。もともと可愛げのない子だった佐助は、それでますます可愛くなくなった。
佐助も巻き添えになり、死にかけたのだ。それからなんとなく、人が怖い。
(思い出せよ、あんなに痛い思いしたじゃない)
服の上からそっと、脇腹をさする。
父に刺された傷跡。そこからもっと深く、佐助の心まで届く傷。
(思い出せよ...そんで言うんだ。もう会えないって。一言でいいんだから)
アパートの、赤錆びだらけの階段の前で、一度とまる。
その階段を登りきって左を向けば、幸村はきっとそこにいる。
いつもみたいに、ドアの前に座り込んで、ただずっと自分を待っている。
足音で気付いて、いつも力いっぱいおかえりと笑ってくれる。
(俺は今日、なくすんだ、そういうものを)
佐助は少し目を閉じる。幸村の笑顔を思い浮かべる。
(大丈夫...全部元に戻るだけ)
階段を1段上る。2段目に足を駆け、3段4段とどんどん上ってゆく。
上りきって、左を見て、
「佐助、おかえり」
幸村の笑顔を見ないように、ちかちかする切れかけの蛍光灯を見つめた。
「ごめん、もう会えないよ。だからもう、来ないでよ。じゃあね」
くしゃっとした笑み。本当、困ってるんだよね、って顔。
そう言ってすぐ、幸村を押しのけて部屋に入った。
幸村はぽかんとしているようだった。
佐助が部屋に入ってから、ドアの外から一言聞こえた。
「すまない」
その声はまっすぐで、ああ彼らしいなと思った。
鍵をかけて、玄関にへたりこんで、しばらくぼうっとした。
(全部...元に戻るだけ)
カンカンと階段を降りる音が遠ざかっていく。
(元に、戻るだけ)
窓の外からはたくさんの音が聞こえる。
世界には、たくさん、たくさんの人がいるのに、佐助は一人だった。